寝ぼけ署長 山本周五郎

  • 2019.10.19
寝ぼけ署長 山本周五郎

関西から関東に引っ越してきて最も驚いたのは地震の多さだ。神戸に住んでいる時に阪神淡路大震災に遭って、地震の怖さを身をもって経験している。職場から自宅に帰る途中で多摩川を渡るのだが、橋を普通には渡れないような状況になることだって十分に想定できる。もしも何かあった際に身に付けているものでロープを作ることができると、自分も助かるし周りの人を助けることだってできると思い、毎日カバンの中にアーミーナイフを入れて持ち歩くことにした。ある朝、新宿を歩いていたら、お巡りさんに声を掛けられた。新宿駅であった事件のことで調べているので協力してくれと言う。そしてカバンの中を見せろというので、どうぞどうぞと自ら広げて見せた。「これは何ですか?」「これはアーミーナイフです。」「何でこんなモノを持ってるんですか?」「関西に住んでいた時に地震に遭いまして・・」「これは銃刀法違反です。署までご同行願います。」「え?ちょっと待ってください。こんなのその辺りの店にいくらでも売ってるじゃないですか。それを買って帰ると銃刀法違反なんですか?」「それは買い物をして持ち帰るという目的があるので、銃刀法違反ではありません。」「山に行く人も持ち歩いていますけど。」「それも山に行くという目的です。銃刀法違反ではありません。」「いやいや、私も地震があってもしもの時に・・・という目的があります。」「そういうもしもの時のことは目的ではありません。」「ほんなら、シャープペンシルが嫌いなので鉛筆とアーミーナイフを持ち歩いてる私の友達は銃刀法違反なんですか?」「それは鉛筆を削るという目的があるので銃刀法違反ではありません。」「いやいや、鉛筆の芯は今日折れるかどうかわからんのですけど、もしも折れた時のために持ち歩いてるんです。もしも地震が来た時のために持ってるのとどう違うんですか?」「地震の話は署でゆっくり聞きますから、兎に角署までご同行願います。」

(中略)

新宿署で、「前科はあるのか?」「仕事はしてるのか?」「家族はいるのか?」など失礼な質問に始まり、「新宿には何をしに来たのか?」「家を出てからここまでの経路を話せ」など、長時間にわたり質問を受けたが、結局は地震の話なんて全然聞いてくれなかった。カツ丼も出てこなかった。どうせ捕まるなら、寝ぼけ署長みたいなお巡りさんに捕まりたかった。少なくとも地震の話は聞いてくれたと思う。カツ丼も出たと思う。

本: 「寝ぼけ署長」 山本周五郎
ブックカバー: ヴィクトリノックス